時代遅れになりかけた技術は、どこへ行ったのか
馬の時代が終わっても、馬具の技術は終わらなかった
19世紀のエルメスは、馬車で移動する顧客のために馬具と鞍を作る工房でした。ところが20世紀に入ると、自動車、鉄道、航空機が生活を変えます。馬具だけを作り続ければ、技術は立派でも市場は小さくなります。
エルメスが面白いのは、ここで原点を捨てるのでも、馬具を記念品にするのでもなく、馬具で培った判断を別の商品へ移したことです。
- 丈夫でほどけにくい縫製は、レザーバッグへ
- 鞍や手綱の金具は、バッグやジュエリーの造形へ
- 旅行者の変化は、鞄や小物へ
- 馬具の図像は、シルクの物語へ
- 顧客の装いの変化は、服、ネクタイ、靴へ
大量生産の時代に、手仕事をどう成長させるか
20世紀以降、工業製品は同じ品質の物を速く安く作れるようになりました。エルメスは、その流れに逆らって何でも手作業に戻したのではありません。
機械や新しい技術を使いながら、素材の選択、裁断、縫製、仕上げなど、最終的な品質を左右する場所に職人の判断を残します。ここでの価値は「手で作ったから偉い」ではなく、個体差のある素材へ対応し、長く使える状態へ調整できることにあります。
社会的地位から、個人の物語へ
馬具の顧客は、かつて社会的地位と強く結びついていました。現在のエルメスも富や地位の記号として読まれますが、それだけではありません。
革が使い手によって変化すること、修理して持ち続けること、スカーフの結び方を変えることなど、所有者が物の意味を更新できる余地があります。
BASの視点では、エルメスの強さは「完成された正解を渡す」より、使い手が時間を加える余白を残していることにあります。新品の瞬間だけが完成ではない。少し珍しいラグジュアリーです。
参考:
- 6代にわたるアルチザン|Hermès
- エルメス・イン・ザ・メイキング
伝説は、商品より少し遅れてやってくる
工房から始まり、物語が後から追いついた
エルメスの代表商品には、最初から伝説として企画されたわけではない物が多くあります。
《ケリー》の原型は1930年代にロベール・デュマが設計したストラップ付きバッグでした。1956年、グレース・ケリーがこのバッグを持つ写真が世界に広まり、後に敬意を込めて《ケリー》と呼ばれるようになります。
《バーキン》は1984年、ジャン=ルイ・デュマとジェーン・バーキンが飛行機で隣り合わせたことから始まります。母親になった彼女が、日常で使いやすいバッグが見つからないと話したことから、収納力があり、昼夜に使えるバッグが構想されました。
伝説は、商品の代わりではなく増幅器
ケリーもバーキンも、有名人の名前だけで価値が生まれたわけではありません。
- 荷物を収める構造
- 革と縫製の品質
- 開閉金具や持ち方
- 長期間の使用に耐える設計
- 修理しながら使えること
こうした商品の土台があり、その上に人物と出来事の物語が重なりました。
物語だけで品質が弱ければ、話題は流行で終わります。品質だけで物語がなければ、優れた道具のまま広く共有されないかもしれません。エルメスは、道具としての強さと、語り継げる出来事が結びついたときに、記号が強くなることを示しています。
BASの見方|困りごとは、小さな企画書になる
バーキン誕生の話で大切なのは、飛行機の座席という偶然だけではありません。
「母親が日常で使える、きちんと荷物が入るバッグがない」という具体的な不便を拾い、既存の職人技で解決したことです。
ブランドストーリーは、完成後に美しく飾る文章ではなく、なぜその形が必要だったかを残す記憶でもあります。
参考:
- バッグ《ケリー》|Hermès
- バッグ《バーキン》|Hermès
オレンジの箱を開ける前に、もう始まっている
エルメスは、ロゴより「作り方」が先に見える
エルメスには、馬車のロゴ、オレンジの箱、H、ケリーやバーキンの形など、分かりやすい視覚記号があります。ただ、ブランドの輪郭を支えているのは、それだけではありません。
主要な記号
馬具と馬
鞍、手綱、鐙、鎖、馬車などは、創業時の仕事を現在の製品へつなぐ記憶です。単なる装飾ではなく、「移動を安全に支える道具を作っていた」という出自を示します。
オレンジボックス
現在の公式オンライン販売では、対象商品が専用のオレンジボックスとブラウンのリボンで届けられます。箱は単体販売されず、商品を保護する包装でありながら、開封前の期待、贈与、所有体験までを構成する記号になっています。
一方で、オレンジ色を採用した時期や理由について語られる戦時中の逸話は、一次資料を確認できるまで本文の事実として扱いません。現在の運用と、誕生の由来は別の主張として分けます。
サドルステッチ
2本の針で交差させながら縫う技法は、糸の一部が傷んでも縫い目全体がほどけにくい構造です。見た目と耐久性が同じ技術から生まれています。
金具
《ケリー》のトゥレ、プレート、ストラップ、《シェーヌ・ダンクル》の鎖など、機能部品がジュエリーや装飾の記号へ移ります。
カレ
正方形のシルクは、一枚の絵としても、結び方を変える道具としても機能します。馬具、旅、自然、空想などを描きながら、毎シーズン異なる作者と解釈を受け入れる媒体です。
フォーブル・サントノーレ24番地
本店の住所は、商品ではなく「場所」が持つ記号です。工房、店舗、家族史、顧客との関係が一つの地点に重なります。
革の経年変化
傷や艶を完全に排除するのではなく、素材によっては使用時間が表情として現れます。時間が劣化だけでなく、所有者の来歴にもなる設計です。
記号が強いのに、同じ顔になりすぎない理由
エルメスは、すべての商品へ巨大なロゴを置くのではなく、素材、縫い目、金具、色、図案、名称に記号を分散させています。
そのため、遠くから一目で分かる商品もあれば、使う人や詳しい人だけが気づく商品もあります。記号の音量を一つに固定しないことが、長期間の関係を作っています。
参考:エルメス・イン・ザ・メイキング
原点を守るとは、同じ物を作り続けることではない
エルメスの再編集は、原点を薄めずに用途を変える
再編集というと、ロゴを大きくしたり、昔の商品を新色で出したりすることを想像しがちです。エルメスの再編集は、もう少し構造的です。
1|技術を別の商品へ移す
馬具で培った革の裁断、手縫い、金具の考え方をバッグや小物へ移します。元の商品を小さくコピーするのではなく、「丈夫に支える」「扱いやすくする」という機能を残します。
2|機能部品を装飾へ変える
バッグの留め具や鎖は、ジュエリーのモチーフへ変わります。《ケリー》のトゥレや《シェーヌ・ダンクル》は、元の用途を知っても知らなくても成立する造形です。
3|一つの図案を、形式と配色で更新する
シルクの《ブリッド・ドゥ・ガラ》は1957年から続きながら、サイズ、配色、刺繍、バンダナ、ツイリーなどへ姿を変えてきました。絵を保存するだけでなく、使い方を更新しています。
4|顧客の困りごとを、既存技術で解く
バーキンは、母親の日常に合う収納力のあるバッグという要望から生まれました。新しい技術を発明する前に、すでに持っている技術を別の問題へ当てています。
5|物語を後から商品群へ広げる
ケリーやバーキンの金具や名称は、バッグ以外のジュエリー、小物、別モデルにも展開されます。一つの商品の物語が、ブランド内の共通言語になります。
BAS式に分解する
- 残したもの:素材への基準、職人の判断、耐久性、修理、馬具の記憶
- 変えたもの:用途、サイズ、持ち方、素材の組み合わせ、顧客層
- 加えたもの:人物の物語、年間テーマ、アーティストの図案、新しいメチエ
- 繰り返したもの:金具、縫い目、馬具の形、名称、場所
エルメスの再編集は、伝統へ現代風の服を着せることではありません。伝統の中から再利用できる判断を抜き出し、別の生活へ置き直すことです。
参考:
- 6代にわたるアルチザン
- シルク《ブリッド・ドゥ・ガラ》


1837年〜現在
